FIREを知らない人のために最初に説明すると、
FIREとはFinancial Independence,Retire Earlyの意味で、経済的自由を得て、早期退職を目指す生き方の事だ。最近流行っている。
私は30歳後半でFIREしたのだが、思っていたより楽しくない。
朝目覚ましをセットする必要も無くなったし、会社に行って働くこともない。
好きな時間にご飯を食べ、趣味の読書をする生活をしている。
最初こそ楽しかったが、1ヶ月もするとそうでも無くなってきた。
悩める現代人へ
何故楽しくないのだろうか、生きる意味って何だろうと最近は哲学者のように考えている。FIREを楽しめない原因を調べているうちに1冊の本に出会った。
泉谷閑示さんの「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える (幻冬舎新書)」という本だ。筆者は精神科医でもあり、作曲家でもある。
本書は、私のように生きる意味とは何かと悩んでいる人や、物や娯楽に溢れた世の中で何か満たされない思いを抱えている人に向けて、どうしたら生きる意味を手に入れられるのかが、筆者自身の医師としての経験を踏まえて書かれている。
少し難しい本だったのだが「遊びを日常に取り入れる事」が、生きる意味を見出すために必要なことだと分かった。
遊びと言っても、現代の日本は勤勉さや忍耐が美徳とされ、生きていることを楽しむことは間違い、遊んでいてはいけないという風潮がある。正直なところ遊びにくいのではなかろうか。
常に生産性や価値を求められ、遊びという価値の無いものは時間の無駄遣いで悪いこと。時間はもっと有意義に使わなければいけないという強迫観念のようなものに、私を含め多くの人はとらわれている。
そのため、心が欲する遊びが無意識のうちに抑え込まれている。「アリとキリギリス」のアリ信仰の人が大勢いる中で、キリギリスは生きづらいのだ。
子供の時楽しめていたことが、今楽しめない理由
例えば遊ぶとして、砂場で泥団子を作るとしよう。
私が保育園に通っていた頃は毎日楽しく飽きもせずやっていた。
今考えると意味のないことや面倒くさいことでも、あの頃は泥団子作りをして遊ぶことが心が本当に欲している事であり、その心と行動を制御する頭が素直に結びつくことで好奇心が刺激され、もっと泥団子の表面をツルツルにしたいとか、カチカチに硬いやつを作ってみようとか自分なりに楽しみを見つけ、それが生きる意味に繋がっていた。
少し大げさか(笑)
でもそれは、心と頭がスムーズに結びついていたから楽しかったのではないだろうか。どうやら私の場合は、心と頭の結びつきに問題があるように思えてきた。色々とやってみたい事はある。ただ、心が頭と結びつこうと手を差し伸べると、頭が手を払いのける。
ちょっと待てよと。
- こんな事して何になる。時間の無駄じゃないのか?
- 資格や語学の勉強でもした方が自分のためになるんじゃないのか?
- やる価値あるんか?
保育園で泥団子を作っていた時にはこんな事は考えもしなかった。
逆に考えていたら怖いが。
大人になってからはこの頭のブレーキがかかるせいで、本当に心が欲することが出来ずにいるんじゃないだろうか。心が欲することが出来ずにいるから、生きる意味もわからずにいるんじゃないだろうか?
だったら頭を無視してとりあえずやってみようってことで、FIRE後に色々とやってはみたものの、心と頭がしっかりと結びついていないせいか、微妙な楽しさになって終わる。うーん、どうしたものか。
この洗脳された頭をどうにかしないと、心と頭は結びついてくれません。
単にFIREすることだけを目標にしても、達成後に会社に行かなくて良くなった、趣味の時間が増えたくらいで終わってしまい、「私の人生、いま凄く充実してる!!うひょおおおおおーー」みたいな心からの感情は湧いてきません。
子供の頃のように童心にかえり、何も他のことを考えずに無邪気に遊べる能力がFIRE後には必要になるのかもしれません。
てことで、今日も読書をして頭の中の固定観念を少しづつ壊しています。
今日の記事がFIREする人の参考になれば幸いです。
ではでは。