
あの日の私は、少しだけ世界の仕組みを理解した気でいた。
朝、目覚ましより先に証券アプリを開く。まだ布団の中で薄暗い天井を眺めながら、前日の米国市場を確認し、気配値を見て、まだ始まってもいない一日に期待を膨らませる。チャートは今日も右肩上がりだった。
「買えない豚は、ただの豚さ」
そんな言葉を冗談半分に口にしていた。本当にそう思っていたわけではない。……いや、思っていたのだろう。上昇する株価は、人から慎重さを少しずつ奪っていく。
駅へ向かう道すがらも、コンビニでコーヒーを買う間も、信号待ちの数十秒でさえ株価を確認していた。数字が増えるたび、世界は自分の味方をしてくれているような気がした。
ニュースでは政治家が景気対策を語っている。
けれど私の頭の中では、もう答えは決まっていた。
「日本経済を救うのは、高市ではない。キオクシアだ」
もちろん本気で国を救えると思っていたわけではない。それでも、そんな大げさなことを言いたくなるほど、未来は明るく見えていた。半導体が世界を変える。その波の上に、自分はちゃんと乗れている。そう信じて疑わなかった。
昼休みになると、弁当より先にチャートを開く。
同僚の話は耳に入らない。ローソク足だけが、生き物のように動いている。
帰宅しても、夕食を済ませても、寝る前までPTSを眺める。
刺激的な毎日を送りたい。
そんな願いは、旅行でも恋愛でもなく、キオクシアが叶えてくれた。
毎日が文化祭の前夜のようだった。明日は何が起こるだろう。どこまで上がるだろう。その興奮だけで、眠れない夜さえ心地よかった。
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そして、ある朝。
いつものように証券アプリを開いた私は、一瞬、画面が読み込めていないのだと思った。
赤い。
見慣れないほど赤い。
一度閉じて、もう一度開く。
やっぱり赤い。
数字は冗談も空気も読まない。ただ淡々と資産を削っていく。
その日から、SNSを見るのが少し怖くなった。
昨日まで威勢よく「爆益です」と書いていた人たちは、急に静かになった。
私も何か書こうとして、やめた。
タイムラインを漂っている私は誰にも見えていない。
まるで、誰にも気づかれないまま死んでしまったキオクシアホルダーの霊になったようだった。
株価は、さらに落ちた。
「ここまで下がれば反発する」
そう思った次の日に、また落ちた。
「さすがに今日は止まる」
その翌日も、また落ちた。
笑うしかなかった。
「暴落っ、暴落っ!! まるで、トルコリラっっっっ!!!」
誰もいない部屋で口に出してみる。
笑いながら言わないと、心が追いつかなかった。
ある日の午後。
ぼんやりチャートを眺めていると、不思議なことが起きた。
頭の中で、突然、競馬中継が始まったのである。
「各馬、最後の直線へ!」
半導体関連が伸びる。
AI関連が伸びる。
市場全体が伸びる。
しかし。
「一番人気キオクシア、かなりの出遅れだぁ!」
杉本清氏の名実況が、脳内で何度も響き渡る。
笑ってしまった。
ついに自分の頭も、株価と一緒に壊れ始めたらしい。
夜になると、ノートを開いて、なぜこうなったのかを書き始める。
業績。
成長性。
AI需要。
半導体。
国策。
期待。
希望。
欲望。
慢心。
損切りしなかった理由。
ナンピンした理由。
「まだ戻る」と思い込んだ理由。
一つ書けば、また一つ思い出す。
さらにもう一つ。
気がつけば、ノートは何十ページにもなっていた。
この調子で全部書き続けたら、きっとマルクスの『資本論』みたいな厚さになるだろう。
私はそのノートを閉じる。
窓の外では、何事もなかったように夏の風が吹いている。
株価は人を天才にもする。
そして、同じ速さで詩人にも、道化にも、幽霊にもする。
今日の私は、その全部だった。
という感じでしょうか。
私は割安株しか買わんので知らんけど。
まぁ投資は祈るようになったら終わりでっせ。